ヒューマンとちぎ 外務省政策アドバイザー/下野新聞(2003年11月24日)
政策協力通し多くの人救う
医師一人の力に限界
外務省政策アドバイザー
国井修さん(41)
外務省と医学博士―。奇異ではあるが、重要な組み合わせである。
政府開発援助(ODA)の保健、医療分野で、日
本がなすべきことをアドバイスする初めての専門家だ。
正式な役職は外務省経済協力局調査計画課の課長補佐。と言っても根っこからの役人ではない。
自治医大を卒業後、栗山村の診療所に勤務していた時、非政府組織(NGO)活動でアフリカのソマリアを訪れ難民などの治療にあたった。しかし出者は治療しても自宅に帰ると、また元の症状に戻ってしまう。
家族に同じような病人が多いために再び感染したり、劣悪な住環境の影響で別の病気にかかってしまうのだ。それにいつまでも現地で治療を続けられるわけではない。自分がそこを離れれば「元の木阿弥」である。
「医者が一人でできる部分は少ない。何とかもっと多くの人を救えないか」と、はがゆい思いをし、「国全体の医療システムを変えなければ、根本的な解決にならない」と痛感した。
その後、長崎大医学部の熱帯医学研究所、米国・ハーバード大学院(公衆衛生学)を経て母校の自治医大で座学の助手を一年間勤め、東京都新宿区の国立国際医療セン
ターに。
NGO活動でこの間も、アフリカや中南米、
東南アジアなどの途上国で、患者の治療に奔走した。しかし、ソマリアでの「なぜもっと多くの人を助けられないのか」の悔しさは付きまとった。
特に国立国際医療センターに勤務した五年間は、いつもプロジェクトが決まってからの海外派遣だ。このため「自分ならこんなふうに国際協力をするのに」と、国の計画に不満があった。
と同時に「それなら内部(政府)に入って何とか変えられないものか」との思いも強かった。
そんな折に「外務省で保健、医療分野での国際協力の計画策定に携わってみないか」と誘いがあり、二〇〇一年十月、三年の任期で引き受けた。
今の仕事はこれまでの経験や人脈を生かし、政策アドバイザーとして「保健、医療分野で日本としてできること」をまとめ、ODAに盛り込む。サミット(先進国首脳会議)などでも、国際貢献策を明確に打ち出す。|
ODAに占めるこうした分野の割合は2.5%だが、海外へは毎月、出張して日本の立場を説明。現地の人が何をできるかや、そこでの人材育成策などを探っている。
父親は病院の検査技師、母親は看護師長だった。ともに大田原市で健在。こうした家庭環境に加え、高校時代からシュバイツァーやマザーテレサへのあこがれがあり、医者になろうと思った。
来年九月には任期が切れる。引き続き外務省にとどまるか、後進に道を譲るかは決めていないが、「もっと多くの人を助けたい」との情熱だけはどこにいても同じだ。
くにい・おさむ
大田原市生まれ。宇都宮高校、自治医大を卒業。東大医学部大学院(国際地域保
健学)で講師を歴任後、外務省に。脳卒中の研究で博士号。妻と2男1女。東京都板橋区在住。